信頼の証である「いわしや」



 「本町の鰯屋下物(さかな)売らぬとこ」(安政時代)と江戸期から医療機器業界で使われてきた屋号「いわしや」。かつて、本郷界隈では多くの「いわしや」が並び、日本の医療を力強く支えていました。
 「いわしや○○器械店」などと「いわしや」の商号(名称/屋号)を会社名に冠していた医療器械業者は、昭和30年代には全国に少なくとも80者(社)ありました。
江戸から明治・大正、昭和にかけてと、薬種問屋の傍ら医科器械類を扱っていた店が、後に医科器械を専門とするようになり、その後いわしやで修行した人が次々と〝いわしや”を名乗るようになり増えていったと考えられています。

昭和30年頃の本郷界隈の地図についてはこちら(PDF)

 当時の医療機器業界において、由緒ある「いわしや」の名称に医師は絶大な信頼を寄せていました。そのため、「いわしや」と言うだけで商売上の信用と経験が認められたとも言われています。なぜ、医師は「いわしや」を信頼していたのでしょうか。そこには、いわしやが築いてきた長い歴史がありました。

いわしやのいわれ



 サクラグループの創業は明治4年(1871年)ですが、業祖をさらにさかのぼると、今から400年近く前の江戸・寛永(1624〜44年)の頃、「鰯屋」の屋号を持つ薬種店(やくしゅだな)を始祖としています。
 「いわしや」の屋号を持つ江戸の薬種店は日本橋本町と日本橋伝馬町に集中していました。それらの「いわしや」は幾系統かの同業者集団がありましたが、元来は一店であり、江戸で幕府が開設されて町人のための市街地が開発された当初から創業されていました。
 医薬品を扱う店が「鰯」の名を屋号としている理由については正確に伝承されていません。
 しかし江戸で創業し明治にかけてなお活躍していた「いわしや」には松本姓系と岩本姓系があります。現在、松本姓系としてはサクラグローバルホールディングを始めとし、東京ダイヨー器械店、カジノ医科工業などが、岩本姓系としては伊藤超短波を始め、瑞穂医科工業、永島医科器械などがいわしやの歴史と伝統を継承していています。
 ともに業祖は和泉国堺(大阪府堺市)で網元をしており薬種商を営んでいます。堺の網元が鰯を屋号にしていた理由は、鰯漁業とその加工で戦国時代から自由都市で有名であった堺の商人として産をなしていた経歴から由来するものと考えられます。古代から鰯の漁業地であったところは、古代の資料である「延喜式」に五カ国あるうちに紀伊国があげられています。堺港での鰯の集散や貿易品の取り扱いから医薬品業者としての経験が新開地の江戸で有望であるとの判断から江戸で開業し、故地の由来から「いわしや」と屋号を名乗ったと考えるのが自然だといえます。


菩提寺に刻まれる業祖の足跡



 「いわしや」の業祖は松本系では鰯屋松本久左衛門とされています。深川雲光院の調べによると、「寛永十四年(1637年)十一月二十九日歿、宝元院光誉道林居士、鰯屋の源なり」と記されています。戒名に贈られる院号は、身分ある者に限られているので久左衛門の身分も商人としては最高の地位にあったことがうかがわれます。
 岩本系では、岩倉長兵衛の弟で鰯屋五兵衛と名乗った岩本孫兵衛とされ、寛永年間に江戸に下り寛文元年(1661年)には薬種問屋を日本橋本町で営業していたことが明らかにされています。(岩片幸雄『医科器械史鰯屋・抄』所収)

いわしやの系譜についてはこちら(PDF)

■宗泉寺

 宗泉寺は、鰯屋の始祖・鰯屋岩本家、鰯屋松本家の墓所がある鰯屋の菩提寺です。山号を天暁山と称し、大阪府堺市柳之町東二丁目寺町にあります。浄土宗知恩院の末寺にして、寺格は能分三等、境内地(敷地)は775平方メートル(235坪)を有し、本堂、庫裡門があります。開基は訓蓮社願誉上人不捨順宏大和尚で、文禄2年(1593年)11月19日示寂されています。本尊は、阿弥陀如来の立像をまつり、その両脇士観世音菩薩、大勢至菩薩の立像と共に本尊宮殿に安置してあります。本堂には、数多くの仏像をまつっており、その中に大石子安如意輪観世音壱体があります。これは、弘法大師が泉州槙尾山で修法の折に大石を以って作られた観音像が、その後由あって極楽は橋の水底より当寺へ光明を放ったのを、当寺五世演誉上人が夢中に感得し、当寺境内地内に観音堂一宇を建立して、安置したと伝えられる観音像です。

  • 宗泉寺にあるお墓に刻まれた「鰯屋」
  • 「鰯屋本店」の文字も見える
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■雲光院

 雲光院には、江戸での松本系業祖である鰯屋松本久左衛門(寛永14年(1637年)没、戒名:宝元院光誉道林居士)が葬られています。東京都江東区深川三好町にあり、淀鰯と刻印された墓石が代々伝えられています。宗泉寺と同じく知恩院末寺で浄土宗鎮西派と称せられた古寺であって慶長16年(1611年)江戸日本橋馬喰町に創建され、初め龍徳山または光厳教寺と呼ばれていました。明暦3年(1657年)正月17日の大火で消失し、神田岩井町を経て天和2年(1682年)深川に移転しました。開基は、徳川家康、秀忠、家光と三代の将軍に仕えて江戸城の大奥に権勢を誇り、才女の誉れ高かった阿茶の局(あちゃのつぼね)で、寛永14年(1637年)に83歳で他界没し、雲光院殿松誉周栄大姉となっています。寺号はその法名雲光院から改められたものです。松本家は三代にわたり檀家総代を務め、現在も松本謙一氏が総代を務めています。



  • 雲光院の松本家の墓石


  • 代々伝えられる「淀鰯」の墓石
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江戸時代当初から薬種店を営む



 「いわしや」は江戸時代中期以後の株仲間資料によると、日本橋本町三丁目鰯屋市左衛門のみが家持であり総本店を名乗っていました。市左衛門以外の「いわしや」については地借、即ち借地営業者です。家持の市左衛門の先祖は「いわしや」創業当初、寛永期には鰯屋松本市兵衛を、また元禄期には市左衛門を名乗っていますが、松本家の家伝によれば、十二代目市兵衛が市左衛門と名を改め、以後それを襲名するようになったのは天保の頃といわれています。
 和泉国堺で薬種店を営んでいた、鰯屋市兵衛が江戸に入ったのは古く、慶長8年(1603年)説もありますが、日本橋本町の地を得ていたことから考えると、その地域の開発年代が寛永年間とみれば、市兵衛の転入は寛永年間と比定すべきでしょう。即ち、鰯屋五兵衛(岩本孫兵衛)と同時代と推測されます。
 この本町三丁目家持の市左衛門は江戸時代初期の頃、つまり鰯屋市兵衛を名乗っていた頃は町割で良い位置の町地を与えられています。江戸城の玄関口にあたる大手門は、江戸城建設当初は現在における位置とは異なっており、現在の常盤橋門が大手門とされていました。
 したがって江戸城創建時の大手門から奥州、日光方面への街道出発点である日本橋本町の地を開発当初に与えられた「いわしや」は、江戸の歴史の当初から活躍していたものといえるのです。江戸の町の中でも、寛永期の形成である町はとくに古町と呼ばれており、徳川将軍家代替わり祝儀の能を江戸城内に入って観劇できるのが古町の名主の特権でした。そうした古町のなかでも日本橋方面はとくに良い町地であったことから推測すると、「いわしや」の始祖はすでにかなりの商業資本を持つ者であったと考えられます。
 日本橋本町のいわば町地での一等地とも言うべきところで営業権を得ていた薬種店のうち、鰯屋市兵衛、そして江戸時代中期以降に市左衛門を襲名して伝えた「いわしや」の系統が明治期に「さくら」の商標をもった「鰯屋松本器械店」「いわしや松本器械店」となり、現在の「サクラ精機株式会社」となり、サクラグループへと発展して現在に至ります。
※サクラグループのあゆみと会社概要をご覧下さい。


近代サクラグループ(サクラ精機)の創業と歴代社長

―明治4年(1871年)から令和6年(2024年)―


  • 十四代 松本儀兵衛

    医療器械販売の礎を築く

     松本儀兵衛は明治四年(1871年)、鰯屋松本市左衛門店の西側土蔵を店舗に改造して医療器械専門の販売部門を独立させた。明治三年(1870年)の売薬取り締まり規則に対応すべく講じた経営方針であった。この医薬行政に転進した医療器械専売部門の独立をもって、当社の創業の年と位置づけている。
     医療器械販売の責任者となったのは同社の筆頭番頭の松本儀兵衛である。すなわち当社の創業者である。
     儀兵衛は、嘉永六年(1853年)九月八日、五代目松本儀兵衛の長男として生まれた。儀兵衛は、若い頃、淀橋松本重兵衛・柏木村松本重兵衛とも名乗っており、現在の松本謙一会長家の菩提寺である東京・深川雲光院(知恩院末寺で浄土宗鎮西派)松本家墓所には、淀鰯と刻名された墓石が代々伝えられている。
     そもそも松本家の菩提寺は出身地の大阪府堺市柳之町東二丁寺町にある知恩院末寺浄土宗宗泉寺である。
     慶応二年三月に屋号をめぐる訴訟裁決が幕府から下された結果、いしやグループは屋号を区分し、淀橋松本重兵衛、儀兵衛(サクラ精機系)は「いしや」と名乗ることになった。

  • 松本儀兵衛
    嘉永六年(1853年)九月~大正十四年(1925年)九月



    明治初年のいしや市左衛門店
    右の土蔵を改造し医療機器を販売
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  • 博覧会で宣伝普及、販路拡大

     松本儀兵衛は(いわしや林喜一郎商店を開いた林喜一郎氏の書簡に「十四代の松本儀兵衛様は、若いときは重兵衛と名乗っていた」とある)明治十六年(1883年)二月二十日、鰯屋市左衛門店の筆頭番頭で、医療器械専売の責任者であった松本儀兵衛は独立し、「いしや松本儀兵衛店」を日本橋本町二丁目に開いた。
     明治二十年(1887年)三月二十五日、東京・上野公園で開かれた東京府工業共進会において、儀兵衛名義で出品した医療器械は三等賞を受賞した。また、明治二十三年(1890年)三月二十五日から開かれた第三回内国勧業博覧会では、医療器械商松本儀兵衛名義で四十五点も出品している。
     明治二十七年(1894年)の第四回内国勧業博覧会では、外科器械部門だけを見ると有功二等賞で裁断器械・箱入外科器械・気管截開器械・救急函・六角氏烙白金と褒状としてエスマルヒ氏外科器械が入賞し国産品開発にかける熱意が感じられる。
     国産品の開発・販売と輸入業務で儀兵衛店は大いに賑わった。

  • 松本儀兵衛使用の英文名刺
    外国製品の輸入業務にも力を入れていた

    専売特許「烙白金」発売広告(明治26年)
    使用法の説明や改良考案の趣意書も付いている
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  • 十五代 松本福松

    儀兵衛の強力なパートナーとして

     十五代の松本福松は明治二十年(1887年)福松二十歳の時、松本儀兵衛店に入店した。福松は明治元年(1868年)二月十八日に七尾忠兵衛の三男として大阪で生まれた。明治二十五年(1892年)松本儀兵衛の婿養子になり、儀兵衛の妹みつと結婚した。
     儀兵衛の店に入った福松の働きぶりは、いつも一生懸命であり、まさに「刻苦精励、謹厳誠実」で、得意先および儀兵衛の認めることとなり、入店わずか四年で経営の一切をまかされたが、儀兵衛共々大いに活躍するのである。儀兵衛店は、医療器械の製造・販売を専門としながら、卸売業の流通機能をそなえており、輸入品は喜望峰回りで六、七ケ月を要すため品物を平時貯蔵のために、当時百四十種上る商品を在庫していた。驚きである。
     儀兵衛は福松という強力なパートナーを得て、販路拡大をはかる一方、詳細な商品カタログを発行したり、製品試験、製品図版を取り入れた広告を載せたりするなど、医療器械の普及宣伝につとめた。そのカタログを見ると、メス、ピンセット、外科用鋏などの鉄小物から、本格的な医療器械も扱っていた。儀兵衛、福松の二人には、日本医学会の発達と医療の向上をはかりたいという熱烈な思いがあった。

  • 松本福松
    明治元年(1868年)二月~昭和二十五年(1950年)十一月



    明治34年設立後の
    合資会社いしや松本器械店
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  • 個人経営から法人組織へ改組

     明治三十四年(1901年)一月、松本福松は松本儀兵衛から営業権一切を譲り受け個人経営の松本儀兵衛店を改組して法人組織にし、「合資会社いしや松本器械店」を設立した。合資形態の法人組織を採用したことは、当時とすると数少ないことであり近代経営感覚を十分に読み取ることが出来る。
     設立三年目の明治三十六年(1903年)当社の現社名ともなった「櫻(さくら、サクラ)」の商標を使用開始し、明治四十年(1907年)十月、商標法により、「櫻」のマークを正式に登録した。
     福松は、当初から数多くの商品カタログや商品説明書を制作しているが明治三十七年(1904年)に「義手足談」を発行した。「医科器械研究会」を創設、「医科器械目録」「顕微鏡的検査器械目録」などを作成した。明治三十九年(1906年)八月、本所区太平町二丁目に「合資会社冠工社」を設立。明治四十四年(1911年)二月、組合設立の認可申請を農商務大臣に提出し、同年五月五日に正式認可され、東京医科器械同業組合が発足し、初代組長に福松が就任した。

  • 「サクラ」の商標
    最初はサクラの花びらだけだったが、
    類似の商標を防ぐため徐々に連結商標として増やして登録していく


    明治37年11月発行
    単なる商品説明にとどまらず、
    一種の医学書と呼べる内容になっている
  •    
  • 国産顕微鏡 第一号「エム・カテラ」の誕生

     外国製を凌駕する国産品作りを松本福松は常に念願しており、見事に結実したのが顕微鏡の開発であった。大正三年(1914年)九月、合資會社いしや松本器械店を発売元とする事が決定し、松本の「M」と加藤の「カ」と寺田の「テラ」を取り、ここに国産顕微鏡第一号「エム・カテラ」が誕生した。
     関東大震災の起こった大正十二年(1923年)「櫻」の各種マークとは別に「さくらのいしや」のブランドを商標登録した。
     昭和三年(1928年)三月「合名会社いしや松本薬品部」と正式に会社組織し、脚気の新薬ウリヒンを広告に出していた。
     昭和六年(1931年)二月、エム・カテラ光学研究所を台東区谷中天王寺町に開設し、職人気質での生産から技術革新により高品質な製品を生産することが出来た。
     昭和九年(1934年)新型顕微鏡は、アクロマート系対物鏡の成功と「レンズ防黴法」の技術により、鏡玉の曇りが生じない特色を持った顕微鏡が完成、「千代田顕微鏡」と命名し、昭和九年(1934年)商標登録をした。千代田顕微鏡の発売直後の昭和九年(1934年)四月、合資会社松本製作所を合資会社千代田製作所と改称し新製品の生産拠点とした。
     昭和十三年(1938年)九月、千代田製作所は陸軍衛生材料廠の管理工場に指定(後に海軍の監督工場にも指定)され、軍の直接管理下に置かれることとなった。軍管理工場となった千代田製作所井の頭工場は、昭和十五年(1940年)以来顕微鏡に対する軍の需要が激増したため、昭和十六年(1941年)十二月二十九日千代田光学工業(株)を現三鷹市牟礼に設立した。
     昭和十九年(1944年)十一月三十日、日本橋本社は空襲より全焼、昭和二十年(1945年)三月、本所工場全焼を期に、四月、軍より緊急疎開命令が出され長野に疎開した。
     福松社長は、終戦直後に幹部社員を集め、「これからはサクラのマークを打てる製品をつくれば各地の大学の先生方に使ってもらえるだろう。そのためには、民需転換に少し時間が掛かってもよいから良品を作ってくれ」と言明した。

  • 1914年に誕生したエム・カテラ顕微鏡
    2014年に重要科学技術史資料
    (未来技術遺産)※に登録された
    ※国立科学博物館が定めた
     登録制度により保護される文化財



    「さくらのいしや」の商標


    千代田顕微鏡の商標
  •    
  • 十六代 松本善治郎

    高度経済成長期にサクラブランドで販売を拡大

     十六代の松本善治郎は昭和二十二年(1947年)五月、合資会社の形態から新たに株式会社組織へ改組し、株式会社いしや松本器械店と名称も変え、社長には松本善治郎が就任した。
     戦災で失われた社屋も、社長就任前に日本橋本町に本社屋を再建し落成の頃は、大半の社員が長野に疎開中であり、軍に徴兵されたまま復員できない者もいましたが、営業活動は本社在勤者と長野在勤者の二手に分かれ、千代田製作所および千代田光学の製品を主力として地方への販売を再開していった。
    昭和二十五年(1950年)六月、朝鮮戦争が勃発したことを契機として日本経済は高度成長経済とつながり、長年培ってきた「サクラ」マークへの信頼が改めて認められ、老舗企業としての社会的信頼が再び強まってきた。
     この当時、農林省・労働省・保安庁(現防衛省)・日本国有鉄道・各都道府県庁など中央で物品をまとめて購入し、地方の施設・病院にそれらを供給する官庁が比較的に多かった。しかし昭和三十年代(1955年)にはいると中央集中購買方式は徐々に改められ、地方での直接購入に代わってきたため、地方への出張等も増加し営業活動も多彩となった。
     一例をあげると昭和二十八年(1953年)東京都から食品衛生管理の強化に伴い全保健所に設置する孵卵器・乾熱滅菌器・コッホ消毒器・小型蒸留器等を大量に一括受注した。
     昭和三十一年(1956年)日本経済が本格的な高度成長期を迎え、昭和三十五年(1960年)所得倍増計画を打ち上げられ、医療器械業界も昭和三十年(1955年)代初頭から全国的に活発化した大中規模の病院の新増設ブームに乗って販売活動も拡大していった。とはいえ一病院の需要に対し、販売合戦は激烈な競争状態が続くなか、当社は長年培ってきた「サクラ」のマークの信用を武器に、全国各地の病院で新規受注に成功した。
    千代田光学工業は昭和三十一年(1956年)八月、米カリフォルニア大学にB型顕微鏡一四〇台、次いで昭和三十二年(1957年)には中国にL型、翌年にはマニラ・台湾に各五十台を輸出した。
     昭和三十二年(1957年)「臨床検査室設備器械輯録」を発刊した。

  • 松本善治郎
    明治三十四年(1901年)七月~昭和四十八年(1973年)一月


    戦後再建された新社屋
  •    
  • 特約店制度をスタート、販売の効率化とアフターサービス体制を強化

     昭和三十三年(1958年)十一月、全国の取引先の中から優良企業二十一社を特約店に選定し、業界初の特約店制度をスタートさせた。
     昭和三十五年(1960年)七月十二日、新本社ビルが落成した。新社屋は、地下一階、地上四階建てで、二階三階に商品展示室を設けたものであった。その後業績拡大と社員の増加で、昭和四十一年(1966年)五月に新たに五階部分を増築した。
     (株)いしや松本器械店当時の製品を列挙してみよう。千代田光学工業(株)の製品では、位相差顕微鏡・万能写真顕微鏡ポリフォト・実用型顕微鏡C型・研究用顕微鏡Rbi・L型・普及型のLT型・単眼B型・学生実習用のF型・携帯用鏡基のQ型・ポケット顕微鏡V型・最高級顕微鏡MT-Bなど多岐の製品がある。
     医科器械の分野では製品で手術室の器械では、手術灯シルキーライト、外科用手術台、X線用、骨折用、普及型手術台、電気メス、強力、低圧吸引器、消毒室、材料室の器械では、繃帯材料消毒装置、ハイスピード高圧消毒器、殺菌水製造装置、痰コップ消毒器・煮沸消毒器、食器消毒器、器械戸棚等があり、グローブ乾燥散粉器、病棟では便器尿器消毒器などがあった。病理・解剖室の製品では、解剖台、無影灯、写真台、ミクロトーム刀研磨機、包埋装置ロータリー、組織固定用振盪器、パラフィン伸展器など・細菌検査室では、孵卵器、回転、振盪培養孵卵器、培地滅菌凝固器、熱風乾燥器、低温乾燥器、乾熱滅菌器、恒温水槽、縦型高圧消毒器、コッホ氏蒸気消毒器、蒸留水装置、再蒸溜装置などがあった。
     昭和三十六年(1961年)に現会長の松本謙一が入社した。
     昭和三十七年(1962年)一月、東京医科器械同業組合の第10代理事長に就任した。
     昭和三十七年(1962年)四月、松本善治郎社長が創立以来の社名である「いしや松本器械店」を変更し、新たに「サクラ精機」と改称した。
  • 昭和20年代半ばから
    30年代初めにかけての主力製品

    メスの手研ぎから研究者を解放した
    ミクロトーム刀自動研磨機第1号品


    終戦後の
    繃帯材料消毒装置


    国産初のサクラロータリー
    (自動固定包埋装置)
    第1号RH-12型


    第1回特約店代表者会議を開催(1958年)

  •    
  • 十七代 松本謙一

    欧米市場開拓への第一歩

     昭和三十七年(1962年)四月、当社は明治三十四年(1901年)創立以来の社名である「いしや松本器械店」を変更し、新たに「サクラ精機株式会社」と改称した。
    社名変更の一年前の昭和三十六年(1961年)に慶應大学経済学部を卒業して入社後同大学機械工学科聴講生過程に進み、後継者として第一歩を踏み出した。
     この時代は松本善治郎が社長で、松本謙一は常務取締役であったが、松本善治郎社長の片腕として昭和三十八年(1963年)五月末にロンドンで開催された「国際病院設備及び医療機器展示会」に当社も出展を決定し、ミクロトーム刀自動研磨機、ポリフォト、千代田顕微鏡など数品目を展示した。説明要員として松本謙一常務が単身出張し、ヨーロッパ主要八カ国、アメリカ、カナダへも足を延ばし、諸外国のバイヤーと商談し、約七〇〇万円余の成果をあげた。出張期間は実に七十四日間という長きにわたるものだった。
     明治三十四年(1901年)創立以来の営業は、常に内需(朝鮮、台湾向けを含む)であり、軍需であり、更に関東州、満州、軍占領下の地域への輸出であった。 この海外出張の成果は翌昭和三十九年(1964年)九月期の輸出実績約一千五百万円(カナダ、香港などのほかユニセフを含む)となって現れた。

  • 松本謙一
    昭和十一年(1936年)~
  •    
  • 地方営業所を開設し、国内販売を強化

     当社は昭和四十年(1965年)九月二十五、六の両日、大手町のサンケイ会館六階会場で当社製品の自主展示会を開催した。
     当社はかねてから地方営業活動に力を入れてきており、昭和四十一年(1966年)五月に大阪営業所を新設、その後名古屋市内に駐在員事務所(後の名古屋営業所)、仙台営業所、福岡営業所など全国主要都市に営業所とサービスセンターを開設した。
     昭和四十年代に入り、国公私立の新増設医科・歯科大学が相次ぎ、当社は新増設ブームに対応するため特約店網を強化し、当社の販売力を最大限に発揮し、多大の成果を上げることが出来た。

  • 業界初の自主展示会を開催(1965年)
  •    
  • 国際提携を実現

     医療器械分野では世界のメーカーのトップに位置するアメリカン・ステリライザー社(略称アムスコ、本社ペンシルベニア州エリー)と昭和四十五年(1970年)四月、日本政府の認可を受け提携を実現した。
     アムスコ社との提携を実現した翌年の昭和四十六年(1971年)十一月、当社は臨床検査試薬と医療機器の輸入販売のマイルス・三共(本社・東京)と販売提携を締結した。マイルス・三共はアメリカの総合医療品メーカーであるマイルス社(本社・インディアナ州)と薬品メーカー三共及び小野薬品との合弁会社である。この提携に基づき、昭和四十七年(1972年)二月、両者の提携商品第一号として病理組織標本作成機器ティシュー・テックのシステム販売を開始した。

  • 業務提携したアムスコ本社


    アムスコ・チャレンジ22 無影照明灯


    マイルス・三共との提携商品第1号である
    病理組織標本作製機器
    ティシュー・テック用カセット
  •    
  • 若き社長の誕生

     サクラ精機の創設者松本福松の跡を継ぎ、社長として活躍した松本善治郎が昭和四十八年(1973年)一月二十四日、脳血栓により永眠した。享年七十三歳であった。当社にとってこの悲報はまさしく痛恨の極みであったが、後継者松本謙一が代表取締役専務として社業を担っており、故人の遺志を継いで新たな展開への第一歩を踏み出すこととなった。
     昭和四十八年(1973年)二月五日、臨時役員会を開催し、善治郎社長の死去に伴う後任社長として松本謙一専務の昇格を決定した。若き社長の誕生である。時に三十六歳の若さである。サクラ精機の社長と同時に千代田光学の社長を兼務した。
     新体制の誕生した昭和四十八年(1973年)は、国内外で大きな変化を生んだ年である。
     一月一日から老人医療費の無料化、二月十四日、外国為替相場の変動幅の制限停止、四月二日に政府が発表した地価上昇率の急騰、十月六日、第四次中東戦争勃発。第一次オイルショックにより卸物価及び消費者物価が上昇。医科器械業界にも波及し、原材料のコストアップ、資材の入手難という事態に悩まされた。 昭和四十八年(1973年)五月、東京と大阪において第三回サクラ=アムスコ国際シンポジウムを開催した。この年、現実の営業活動に密接した情報交換のため特約店ブロック会議を発足させた。
     昭和四十九年(1974年)七月、キューバ政府からオートクレーブ四三台、卓上型クレーブ一〇七台など総額一億七千万円の大口受注の成約を見た。
     初の国産顕微鏡を開発したという輝かしい歴史を持つ千代田光学は、経営不振が目立ち、大正三年(1914年)に「エム・カテラ」顕微鏡を初めて世に出し、長い間日本一の技術を誇った顕微鏡製造会社であったが、新型MT-B顕微鏡の発表を最後に昭和五十一年(1976年)四月二十日、工場を閉鎖した。

  • 特約店ブロック会議


    フィデル・カストロ首相とともに
    (キューバ・ハバナにて)
  •    
  • 新たな営業路線の開拓

     昭和五十三年(1978年)三月、フェザー替刃式ミクロトーム刀およびホルダーセットを新発売した。今までは当社が開発したミクロトーム刀自動研磨機が病理研究者に愛用されていたが、使用する国産砥石にも限界があったので、フェザー安全剃刀は武石教授から当社との提携の斡旋をうけ、当社の販路を活用することになった。同年十月、業界初の研修センター(後に教育センター)を開設した。
     昭和五十四(1979年)年三月、医療機器のアフターサービス会社、サクラエンジニアリング株式会社を設立した。同年三月、提携関係にあるマイルス社と組織検査関連機器ティシュー・テックVIPのOEM供給契約が両社の間で調印され、5年間で四千台を輸出する大型契約が出来た。
     昭和五十八(1983年)年十月、新本社ビル、鉄骨鉄筋コンクリート造り地下一階、地上八階を竣工した。
     昭和五十八年から六十年にかけて、イラクの十三病院新設プロジェクトへ参加し大量受注に成功すると共に、日中友好の国家間プロジェクトとして行われた日中友好病院開設プロジェクトにおいて多大な成果を上げた。

  • 1978年に開設した研修センター
    (現教育センター)。
    JICAの研修生への技術指導も行っている

    ティシュー・テックVIP

    1983年に完成した本社ビル
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  • グローバル化の推進と医療機器業界の発展に尽力

     昭和六十一年(1986年)十月、カリフォルニア州トーランス市にアメリカ現地法人サクラ・ファインテック・USAを設立(SFA)、今ではアメリカの病院、研究所の病理関係者に多く知れ渡った。
     昭和六十二年(1987年)六月、北京市に中国医療衛生器材進出口公司櫻花精機技術服務站(中国サクラサービスセンター)を日中友好病院内に置いた。
     平成元年(1989年)、日本医科器械商工団体連合会の会長に就任した。
     平成三年(1991年)、サクラ精機百二十年史を刊行した。
     平成五年(1993年)、海外医療機器技術協力会(OMETA)会長に就任した。
     平成六年(1994年)、中国北京市に北京事務所を設立。同年サクラファインテックヨーロッパ(SFE)(オランダ・ライデン市)に設立。
     平成七年(1995年)、米国バイエル社の病理・細胞診断検査事業を買収し、世界戦略を強化拡充した。同年、日本医療機器関係団体協議会三代目会長に就任した。
     平成八年(1996年)、藍綬褒章を受章した。
     平成十年(1998年)、米国現地法人サクラファインテックUSA(SFA)新社屋完成(カリフォルニア州トーランス市)。同年、医療機器業公正取引協議会を設立し、初代理事長に就任した。

  • サクラファインテックUSA



    サクラファインテックヨーロッパ
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  • 専門性を強化し、グループ企業体制を確立

     平成十三年(2001年)、ラボラトリー事業部を分離独立し、サクラファインテックジャパン株式会社(SFJ)を設立した。
     平成十七年(2005年)、産業関連部門を分社し、サクラエスアイ株式会社(SSI)を設立した。同年、サクラ精機と千代田製作所が合併し、新生「サクラ精機株式会社」(SSC)が誕生した。
     平成十九年(2007年)、旭日中綬章を受章した。
     平成二十年(2008年)、業務受託部門を分社してサクラヘルスケアサポート株式会社(SHS)を設立した。同年、日本医用機器工業会(現一般財団法人日本医療機器工業会)理事長に就任した。
     平成二十一年(2009年)、サクラグローバルホールディング株式会社(SGHC)を設立。
     平成二十二年(2010年)、サクラファインテックヨーロッパ新社屋完成(オランダ・アルフェンアンデリジン市)した。
     平成二十三年(2011年)、中国現地法人、櫻花医療科技(泰州)有限公司(SCN)設立。
     平成二十五年(2013年)、一般財団法人松本財団を設立した。(後に松本記念財団)
     平成二十六年(2014年)、サクラファインテックジャパン、ラボ・スクエア(さくらぼ)、サクラ精機「サクラとぴあ」がオープンした。同年、スマートセクションが経産省/日本機械工業連合会のロボット大賞、日本機械工業連合会会長賞を受賞した。同年、「エム・カテラ」顕微鏡が国立科学博物館の重要科学技術史資料(愛称・未来技術遺産)に登録された。国産初「エム・カテラ」顕微鏡の製造販売開始から100周年記念。国立科学博物館で「国産顕微鏡100年展」が開催された。
     平成二十七年(2015年)、サクラファインテックUSAは米国ジーンメッド・バイオテクノロジーズ社(免疫組織染色事業)を買収した。
     平成二十九年(2017年)、『経営者は遊び心を持て 空飛ぶ怪鳥・松本謙一の人間学』を発刊した。
     平成三十年(2018年)、単回医療機器再製造推進協議会(JRSA)発足、初代理事長に就任した。
     令和元年(2019年)、サクラファインテックジャパン・アジア・リージョナルオフィス(マレーシア)を設立した。同年、即位の礼に医機連会長として参列。同年、内閣官房健康・医療戦略室健康・医療戦略参与に任命される。
     令和二年(2020年)、サクラ精機、中国、上海に上海富吉医療器械有限公司と合弁会社(富櫻(上海)医療器械有限公司)・工場を設立。
     令和四年(2022年)、中国・泰州に「サクラ中国工場」(櫻花中国工厂)、新工場を稼働開始した。同年、サクラ精機、長崎市に研究開発センターを開設した。同年、『サクラ精機150周年記念誌』を発刊した。

  • 叙勲祝賀会


    村上毅著/日刊工業新聞社


    上海富吉医療器械有限公司と合弁会社を設立。
    甲斐元虎 総経理(左)と松本会長


    サクラ中国工場開業式
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